金持ちの老人が共に自殺する仲間を募り、集まった人たちに、死にたい理由を訊ねます。そのうちのひとり、十代とおぼしき女性が言うには・・・人間、美しいときが一番幸せです。私は幸せだから、幸せな今死にたい、と。
何十年か前に見た、永島慎二の短編漫画のシーンです。
外見の美というはかないものに頼った幸せが早晩消滅するのは自明の理。彼女はその席で、別な幸せのネタを見つけて、死を思いとどまるのでした。それは「恋」であります。なんともクサいストーリーだ。
そうだ、自殺しよう
こんな古い記憶が蘇ったのは、このごろ自殺について思いを巡らすようになったから。
幸せな人は幸せを維持できなければ不幸せになるだけです。幸せの絶頂で死ぬことは賢明であり、究極の贅沢。今ここで、ミルトンとは無関係のチョーくだんない小説を思い浮かべた人いるかな。
美しくなくとも幸せであることは可能だろうが、我が身を振り返れば、美しくもなく幸せでもない。こんな私には自殺する資格もなさそうな。
だからって不幸せというわけでも。
人づきあいが苦手で根が怠け者の私は、早くにリタイアしました。貧しいけれど、あくせく働かず、好き勝手なことをして暮らし、人間関係の軋轢で神経をすり減らすこともない。
ものごころついて以来、大病や大怪我をした経験もなく、現在も医者や薬に頼る必要がない程度に健康なのはありがたいことです。
はた目には充実度の足りないあわれな人生とバカにされようとも、自覚的には気楽で、満足しています。
はたしてこれがいつまで続くか。
将来を思うと暗然となります。
現在よりも醜くなる確率は98%、貧しくなる確率80%、不幸せになる確率88%。楽観的に予想して、これから3年以内の数値です。5年経てば、間違いなくすべてが100%。
ならば、あまりひどくならないうちにピリオドを打つのが次善の策ではないのか。
自殺のメリットデメリット
メリットとしては
- 日時、場所、方法を選べる。
- 身辺整理ができる。
- ひとりでできる。
「ひとりで」というのは重要です。人に頼ると、その人は自殺幇助罪に問われます。
自分が死ぬ瞬間を誰にも見られずに済むって、ほっとするでしょ。家族に見守られながら静かに息を引き取りたいと夢みる人々には理解されにくいけど。
デメリット
- 面倒。
- 世間から白い目で見られる。
- 家族が悲しむ。
ほっとけば死神が殺してくれるのに、自ら手を下すのには、かなりのエネルギーが必要です。
犯罪ではないのに自殺者が非難されるのは不当だと感じるが、死後のことだから、本人はどうでもいいや。
家族? うーん、私の家族はあまり悲しまないような気がする。父親は怒るかも。ワシの介護は誰がするんじゃ。ととさま、そのためにヘルパーさんがいるんですよ。
できれば両親を看取ったあとに・・・と、ずるずる延ばすのもねえ。120歳くらいまで生きそうだもん。
恐怖の正体
死ぬのが怖くないのかって?
怖いの怖くないのって言っても始まらない。誰でも死ぬんだから。
死それ自体は恐怖の対象ではありません。
ほんとうに怖いのは死なないことです。痛くて苦しくてつらいのに死ねない、それが延々と続く・・・まさしく恐怖です。
だから死ぬときは即死したい。しかし普通に生きていれば、即死などまず不可能。
日本人の平均寿命と健康寿命の差は10年内外(女性は12年以上)。普通の人は、死ぬまでの10年間を苦しみながら過ごすのです。
介助や介護を受けながら不自由に暮らす10年間のあと、いよいよ死出の苦しみに入ります。激しい痛み、呼吸困難、意識混濁・・・運が良ければ数時間で終わるケースもありますが、医学の進歩で老人は容易に死ねなくなりました。胃や気管に穴をあけられ、何本ものチューブにつながれ、苦悶の中で数日、いや数週間、下手したら数か月間を過ごしたのち、やっと解放されるのです。
法制化されていないとはいえ、最近の病院では安楽死めいた処置もしくは無処置が行われることもあるようです。でも安楽死には、じゅうぶん苦しんだという実績が必要です。今はなんともないけど将来苦しみたくないからやってくれと要求しても門前払い。
大病や大怪我の経験がない私は、きっと苦痛への耐性を備えていません。
3分間なら、なんとか我慢する。それ以上はゼッタイに嫌。もはや自殺しか手だてはないではありませんか。
加えて、私には介護生活も恐怖です。介護される自分を想像すると背筋が冷たくなります。とにかく人間嫌いだから、他人の手を煩わせないと日常を送れない状況では、精神の破綻をきたしそうです。
私を介護する人はおそらくヘルパーや介護士、看護師だろうから、家族への気兼ねみたいなものはなく、扱いも上手なはず。が、プロだからってちゃんとやってくれる保証はないのです。
『親を、どうする?(小林祐美子)』という介護マンガがあります。ほんわかした絵柄で、いちおうフィクションだからきれいごとみたいな面もあるのですが、内容はシリアス。介護ボランティアが施設で見た虐待の実態、帰るときに入所者から握らされた紙に「タスケテ」と書かれていた、とか。
虐待混じりでも介護を受けられるだけラッキーかもしれません。今後の圧倒的な介護人材不足で、多数の老人が放置され、孤独死を迎えることになりそうです(2025年問題)。
私だってべんべんと被介護突入を待っているわけではなく、1日1時間のエクササイズ、週3回のウォーキング、添加物少なめ塩分控えめの食事など、可能なことは実践しています。骨密度と筋力には自信があり、フレイルやサルコペニアで動けなくなる可能性は低いでしょう。
が、人生は何が起こるかわからん。
ぐずぐずしているうちに、突如血管が詰まったり破裂したり、階段から落ちたり、自転車にぶつけられたりで、要介護になってしまったら、自分で死ぬ気力も失せます。「元気なうちに予防的自殺」が現実的かなー。
活力ある自死
そんな理由で死ぬなんて気が早いのではないか?
そんな理由で死ぬ人なんていないのではないか?
2006年、須原一秀という哲学者が、老醜が嫌だと首をくくりました。
自分の死を「哲学的事業」と銘打ち、『自死という生き方』という本を遺しています。
その思想『新葉隠』はちょっとばかばかしいような印象。でも人生を楽しみ、満足した段階で自分の生を断ち切るというきっぱりした態度には羨望を抱きます。
厭老自死は今後増加するだろうと、連鎖自殺を期待するようなことを書いていますが、あいにくそんな風潮はないようです。
そりゃもう、自殺ってたいへんなエネルギーを要するのですから。
私がこの本を知ったのは、『死と生(佐伯啓志/新潮社/2018年)』の中で紹介されていたからです。
『死と生』の著者は、人生の終わりに生きているとも死んでいるともいえない苦しみの期間が続くなら、その一歩手前で自死することはきわめてまっとうと認めながらも、自分自身はその覚悟ができていないと吐露します。
そして、苦しい人生なのに、ほとんどの人がそれに甘んじ、自然が死をもたらすまで生き続けるのはなぜなのか、その答えのひとつとして、トルストイの死生観を紹介しています。
普通の人が自殺しないのは、自分の死から目を背けている、自分が死ぬことについて本気で考えていないからにすぎないと、私は思うんですけどね。
死刑になりたい
ときたま、無差別殺人をしでかし、その動機として「死刑になりたかった」などとほざくヤツがいます。
バカヤロー、てめえひとりで死ね。とは、遺族でなくても叫びたいところでしょう。
日本では毎年3万人もの自殺者がいても、この手のデスペレートな犯罪はまれです。良識ある民族なのかな。銃がないからかな。
いや、しつこく述べますが、自殺は莫大なエネルギーを動員しないとできません。強い意志とそれなりの体力が必要です。自分ひとり殺すだけでしんどいのに、おおぜいやっつけようなんて、とてもとても。
そして、ほんとうに死にたい人が決行に当たって一番恐れるのが、死にそこねることです。苦しまないために死のうとしたのに、失敗して生き延び、後遺症に苦しむなんて、ぶざますぎる。
不安だから、全財産なげうっても、ドクターキリコだか殺し屋ケラーだかにすがりたい気分。
ご存じですか? ひとりの自殺者の後ろには10人の自殺未遂者がいることを。成功率は1割なのです。
それを思うと、身が震えます。やるからには絶対確実な方法を選ばなければ。
高いところから飛び降りるとぐちゃぐちゃになりそうだけど、ビルの8階か9階から飛び降りて助かった芸能人いましたよね。20階以上でないとヤバそう。うちの近所にはないぞ。
またも古い記憶ですが、何十年か前に読んだ法医学の本に、日本の死刑執行方法(絞首刑)は残酷か否かという一章がありました。
比較的早く意識がなくなり数分で確実に死ねる点で、まずまず人道的であるという結論でした。電気椅子は、体質によっては生焼けになってさんざん苦しむことがあるとか(当時の技術だからね)。
善良な一般人にはおおむね苦悶の死が訪れるのに、死刑囚は楽な即死が約束されている。これって不公平じゃありません?
せっかく死刑制度がありながら、わが国の執行件数は少なすぎ。税金たんまり投じて作った絞首台がもったいないじゃありませんか。1件何十万かで、自殺希望者に開放したらいかがでしょう。足場を外したり掃除したり死亡を確認する人材もつけてね。
とまあ、タワゴトで締めくくれば、記事全体が冗談だと思ってもらえるでしょう。